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「心臓と暮らし」タイトル

これらの文章は、2002年から2003年の岩手日報コラムに連載されたものです。
今でもとても面白く読めましたので、再掲載しました。  ぜひ、ご一読ください。



第29回 (最終回) なぜ健康でありたいのでしょうか?

岩手医科大学第二内科・循環器医療センター
平盛 勝彦
2003年3月25日


この連載の最終回です。目次のつもりで書いた第一回目の私の記事をみて、当科のスタッフが企画会議を開き、その後を続けました。その企画のアンカーを私が務めることになりました。それで、何の話がいいかなと考えていて、ふと浮かんだのが今回のタイトルでした。

健康でありたいのは当然なのに、なぜその理由を考えようというのでしょうか。実は、健康でありたいのは当然だと思うのが怪しいのです。健康のための健康づくりをしようとしてしまうのです。当然だとしていては、本気で健康を大切にできないのです。

世界の歴史上、健康のための健康づくりは、いまの日本だけにある奇妙なことなのです。健康でさえあればいいということが怪しいのです。「健康で長生きの大泥棒に拍手」 ということになるのです。

この連載のタイトルは 「心臓と暮らし」 です。第一回目の 「10項目の心がけ」 の第一は 「心臓は生老病死と共にあります」 でした。第二が 「心臓は、生きがいある暮らしのために頑張ります」 でした。そうなのです。生きがいが大切なのです。生きがいとして、したいことがある、しなければならないことがある、健康でなければできない、だから健康でありたいと思うのです。その生きがいある暮らしへの想いが切実でなければ、生活習慣を改善する行動を引き出せません。始めてみても三日坊主で終わってしまうのです。

「老病死」 を考えてみて、したいことができなくなるかもしれないという暮らしの危うさを感じ、健康でありたいと 「こころ」 に想い、そこから、健康づくりに真剣にとりくむようになるのです。

ヒトが行動を起こすには、その 「こころ」 に感じることが必要なのです。読者の皆さんは、この連載でいろいろな医学知識を学んだものと思います。しかし、学んで分かっただけでは暮らしは何も変わりません。ヒトは理屈だけでは行動を起こしません。しかし、「こころ」 に響けば、容易にアクションを起こします。恋愛や喧嘩などのようにです。暮らしの中でしたいことを考え、自分の 「老病死」 を考えていると、理屈が 「こころ」 に響いてきます。

私どものチームの若い医師たちにも、患者さんへの話が、鼓膜に届き(聞こえて)、脳みそに届き(理解され)、「こころ」 まで届いたかを確かめなければ話したことにならないよと教えています。「よく分かりました」 と言われて終わるのではダメなのです。

「こころ」 に響くかどうかは、医師の話し方や態度にもよりますが、患者さんの感受性にも関係します。医師が、「こころ」 に響く話ができるようになるには、然るべき資質と、医学の修練および人生の経験が必要です。患者さん方には、生きがいの自覚と 「老病死」 への感受性が必要です。ですから、「なぜ健康でありたいのでしょうか」 という問いかけを連載最終回のタイトルにしたのです。当然だとして終わらないで、改めて、当然だとされていることを考えてみるのが感受性を開く鍵になります。

健康という言葉は、緒方洪庵の造語で、福沢諭吉が広めたものです(北澤一利 「健康の日本史」 )。日本語としては若く、その言葉の意味や感じが暮らしに根付いていないのだと思います。難しい言葉だと思って、健康ということを考え直してみるのがいいでしょう。

連載第一回 「10項目の心がけ」 の第九は、「弱った心臓でも、日々の暮らしの中で上手に使えば、調子よく長もちします」 というものでした。健康または病気であることと、生きがいとは別のものです。病気であっても、生きがいは大いにありえます。正岡子規の生涯ようにです。

生老病死は暮らしそのものであり、暮らしには生きがいが必要であり、心臓は生きがいと共にあるという三題噺でした。そのそれぞれへの工夫しだいで人生が違ってくるということを、「心臓と暮らし」 という連載で読んでいただきました。


暮らしと心臓を、どうぞお大事に。

第29回 掲載:2003年4月8日

当ページは岩手日報社の許可を得て掲載しています。

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