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野々木 |
平盛先生も岩手に行ってからいろんなコネクション作ったりして、心肺蘇生法の普及を県民運動にしたよね。 |
菊地 |
そうです、そうです。 |
野々木 |
行政だとか、警察だとか、いろんな組織の人達を入れたでしょ? |
菊地 |
教育委員会とか商工会議所とかも入れましたね。 |
野々木 |
ああいう形を、国でやらなアカンのよね。 |
菊地 |
うん。 |
野々木 |
平盛先生に頼みたいねぇ。全国的な活動をしてほしかったんやな。 その地域でモデルを作ったら、それをちゃんと広めてほしかったよね。 |
菊地 |
やってたんですけど、結局、最後には、教授を定年退職されたんです・・・ね。 でも、平盛先生の性分として、放置されている大事な課題を自ら見つけて、そこを開拓して成果が実ったら、その収穫は後を継ぐ者に任せるということをしてきたじゃないですか・・・。 |
野々木 |
うん。 |
菊地 |
その僕もいなくなっちゃいましたし・・・。そこから発信しようと思ってやっていたんですけどね・・・。 |
野々木 |
次にはね、全国的に広げてやらないといけない、あるいは世界に発信しないといけないって思ってて、そういうのをやるつもりだけどね。 |
菊地 |
ええ。以前に先生と「研修医制度よくないよ」って話したときにも、そんな話になりましたけど、日本って行政とかで何かをやったとしても、それを検証する人がいないじゃないですか・・・。 そのことの評価として、良かったとか、悪かったとかっていう事が一切ない。 |
野々木 |
そう。だって、数年後にはその担当者は別の部署に行ってるんだもの。言葉は悪いけど、やりっ放し・・・。 |
菊地 |
それで、岩手の事を振り返って思うことはですね、やっぱり、検証システムがなかったんですね。 確かに、日本で今まで誰もやっていなかった領域のことだったんで、難しかったとは思うんですけどね・・・。 |
野々木 |
うん。 |
菊地 |
今になってすごく思いますね。何人も教えたのは確かに教えましたし、かなり広げたとは思うんですけど、検証システムがなかったんですよね。 ガイドライン2000が出た後に、ウツタイン登録の必要性は訴えていたんですけど・・・。なかなかできなかったんです・・・。今で言う「抵抗勢力」だったんでしょうか・・・。だから、発信が弱かったんじゃないかって感じています。 |
野々木 |
そうやね。 |
菊地 |
ええ。 |
野々木 |
あのー・・・水沼君が岩手医大を辞めて、開業したしな・・・。 最初のねぇ、厚生労働省委託研究の・・・「9指」のなんたらいう研究があった時には、彼を最初に引っ張り出したんや。その当時は、平盛先生と水沼君でやってたんや。 |
菊地 |
そうです、そうです。 |
野々木 |
それがねぇ、いつの間にかねぇ・・・やめて開業しててねぇ。 |
菊地 |
ええ(苦笑)・・・。その後は僕が引き継いで班会議に行きましたから・・・。 |
野々木 |
昔、その当時に・・・盛岡の・・・見聞録に行った時に、河村先生が来ていてね。 |
菊地 |
ええ。 |
野々木 |
何の時やったかなぁ、平盛先生の会長で集中治療学会が盛岡で開催された時やった時かなぁ。 |
菊地 |
ああ、なるほど、たぶんそうですね。確か、1997年ですね。 |
野々木 |
あの時に河村先生が奥さんと一緒に見聞録に来ててねぇ。 水沼君も来ていたけど、あの時は盛り上がったんよ・・・日本のCPRを何とかせなアカンとね。日本全国にCPRを広めようと。水沼君が「全国行脚する」とか。 |
菊地 |
あっ、そうなんですか。へぇーっ。 |
野々木 |
河村先生はねぇ・・・えらいなと思った。 純粋でね、今でも、ずーっとやってるからね。開業してもまだやってるからね。 |
菊地 |
やってますよね。ホームページも作って発信してますもん。 |
野々木 |
兵庫県の100万人運動ね。河村先生、すごいよね。 |
菊地 |
ええ、そうですね。僕も、兵庫に見学に行きましたもん。 僕が医者1年目か2年目の時に、兵庫に行きましたよ。河村先生のところに見学に。 |
野々木 |
うん。 |
菊地 |
勉強になりましたね。 「命の教育」 ですね、河村先生のお話が感動的で、受講した女子短大生が泣いているんですよ。 ビックリしたというか、こっちも感動しちゃいましたね。 |
野々木 |
うん。すごいよね。 |
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