1970年代初期までに、CPR、除細動と病院前処置を提供する手段は整った。心停止例を救命するシステムは構築されて、有効であると判断された。AHAは医療従事者への教育・啓蒙活動を行う一方、一般市民による一次救命処置の必要性を訴え1974年、AHAは蘇生に関する膨大なデータや実践に基づき、Standards for CPR & ECCという現在のガイドラインの原型というべき心肺蘇生の指針を発表した。この発表は、世界中に大きな影響を与えた。
1980年に、救急隊員(EMT)により除細動を実施する計画は、キング郡で開始された。実施のための訓練は10時間を必要とした、そして、最初のプロジェクトにより、心室細動例の生存率は7%から26%まで増加した。
1984年に、自動体外除細動器(AED)を消防隊が使用する初のプログラムは、キング郡(ワシントン)で始まった。AEDの使用は、EMTの訓練を単純化して、この手法を急速に流布させた。自動体外式除細動器のアイデアは、ポートランドの外科医アルク・ダイアック(Diack)博士によって最初に思いつかれた。
安全のため呼吸検知器がつけられた。最初のモデルは35ポンドの重さで、音声での指示をした。1980年代後期までに、今日ある自動体外除細動器の原型となった。EMTによるAEDを用いた除細動から、第1発見者によるAED(警察または保安要員によって使われるAED)や市民によるPublic Access Defibrillation(公的な場所、例えば空港、学校、運動施設、などで一般市民によって使われるAED)と最終的に家庭用AEDと進んだのは当然のことであった。
米国心臓協会は、蘇生の成功をもたらすための比喩として、4つの救命の連鎖を使用する。これらは迅速なアクセス(心停止を認めて、911を呼ぶ)、迅速なCPR、迅速な除細動である、そして、高度な治療(例えば薬物、気管挿管)である。
植え込み型除細動器の開発は、イスラエルのMichel Miroskyのアイデアを活かし1970年代にBaltimoreのSinai病院で行われた。初めての植え込みは1980年に実施された。また、自動体外式除細動(AED)の開発は、1979年に行われた。これにより、市民による除細動が可能となり、心室細動の救命率が5%から適切なシステムにおいては50%以上となった17。
米国ではウツタイン様式に準じて、全米の病院によるウェブを活用した院内心停止登録がNRCPR (National Registry of CPR)として推進されている。すでに6万件以上の登録があり、心停止に関する貴重なデータが集積され報告されつつある18。院内のVFに対して、除細動実施までの時間が1分遅れるごとに救命率が数パーセントずつ低下することが明らかとなり、除細動実施までの時間の遅れの要因が分析された19。
200病院で7479例の院内心停止登録例が調査され、2分以内に除細動が可能だったものは生存退院率が39%に対し、2分以上の場合は22%と低率であった。
個々の症例の要因に加え、心停止の発生時間が週末や時間外の場合には救命率が低く20、除細動の遅れの要因としてベッド数(200未満が遅れの率が高い)、発生場所(ICUに比べるとモニターやモニター未実施病棟が遅れる)があげられた。
訓練された病棟看護師による除細動については、Code-teamが到着後の除細動に比べて救命率には差はなく、モニターあるいは非モニター病棟では、AEDを使用しない場合に比べて、AEDの適用による救命率が有意に高かった。AEDを用いた早期除細動とともに、注目されているのが蘇生の質の客観的な評価とそれによる蘇生処置の改善である。蘇生処置を客観的に評価したところ、現場では心肺蘇生法が十分に行われていないとの指摘がなされた。
シカゴ大学では院内の各フロアにCPRの質を評価可能な装置を除細動器に設置し、全ての蘇生例を対象にCPRの質の評価を行った。その結果、除細動実施直前の胸骨圧迫の中断が10秒以上、胸骨圧迫の速さが80回/分未満、胸骨圧迫による胸部の沈みが4cm以下となると除細動成功率が低くなり、除細動前の良好な質のCPRが必要であることが示された21,22,23。
CPRの質を評価し、リアルタイムで音声フィードバック可能なシステム(Q-CPR)が開発され、その利用により院内の救命率が高くなったことが報告された24,25。
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