AEDを使う心肺蘇生法(CPR)ホームページ
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第5章-救急システムの確立

1)院内システムとCCUの導入、院内教育

1930年代には、院内の心停止例の救命のため、BeckとLeighninger は院内に蘇生チームをトレーニングし活動させた。1961年までは、急性心筋梗塞症の入院死亡は30%を越えていた。

1961年スコットランドのエジンバラ・ロイヤル病院循環器科のデズモンド・ジュリアンが冠動脈集中治療室(CCU)の構想を提案した13。この構想では、不整脈アラームによる継続的な心電図モニタリング、電気的除細動器を用いた心肺蘇生法の確立、専門スタッフの常駐と機器・薬品を完備、心肺蘇生法の施行を看護師にも許可・教育の4点が挙げられ、短期間の内に標準的なシステムとして世界中に普及した。

Safarは1958年米国で初の集中治療室を設立し、1961年にはピッツバーグ゙大学に麻酔科講座を設置し、初めて集中治療医学のトレーニング゙プログラムを確立した。ピッツバーグ大学にSafar Center for Resuscitation Research を設立し、死去するまで蘇生の科学的な研究を継続した。サファーは脳保護のため、1950年代に提言されていた低体温療法を復活させた。3回ノーベル医学賞候補にあがった。1966年にはアメリカ国立科学アカデミー研究審議会(NAS-NRC)で、心肺蘇生法に関する会議が開かれ、この会議では、主に医療従事者に対する心肺蘇生の啓発を主眼とした報告書が出された。

この報告書を受け、AHAを中心として心肺蘇生法の標準が決定され、医療従事者に対する教育と啓発活動が開始された。 サファーは、これらの実績からAHAの救急心血管治療委員会および米国学術研究会議の救急医療委員会の創設メンバーであり、また最初のCPRガイドラインの作成に参加した。

図:サファー(左)とマックス・ハリー・ヴァイル

図:サファー(左)とマックス・ハリー・ヴァイル

2)院外での蘇生システム:電気的除細動と救急システムの進歩

初めて救急搬送専用の車両が登場したのは、1792年のナポレオン戦争であり、ドミニク・ジャン・ラーレー(Dominique Jean Larrey) が導入したとされる。ナポレオン軍の軍医長に任命されたラーレーは、戦傷者への迅速な治療のため軍救急部隊を編成し、戦場にあっても傷病者がいち早く野戦病院へ搬送されるシステムを構築した。このとき傷病者搬送に使用されたラクダを使用した車両が最初の救急車だとされている。また、救急搬送する場合のトリアージは1800年台の初頭ナポレオンの時代にフランスにおいて戦場で負傷した兵隊の処置優先順位をつけるために考えられた。フランス語のtrierからの派生語で、「選別する」意味でコーヒーやブドウの選別に使われる用語であった。

救急車という呼称(英語のambulance)は、アメリカ南北戦争(1861-65年)の時に始まった。当時は馬車が救急車として使用され、馬車救急車(horse ambulance) と呼ばれていた。これらいずれも戦場で負傷した戦士の迅速な治癒を行う上で大きく貢献した。その後市民に対する馬車を使用した救急車サービスが1865年シンシナチ、1866年ニューヨークで開始された。最初の乗用車による救急車は、1899年にシカゴのミハエル病院で使われたのに始まるといわれている。

図:フランス軍が用いた搬送車(1792年)

図:フランス軍が用いた搬送車(1792年)

日本の救急車の第1号は1932年(昭和7年)日本赤十字社大阪支部が導入した。消防署に救急車が初めて配備されたのは1933年横浜消防署に、キャデラックの改造救急車を配置したものである。1930年代には、院外救急活動が消防組織により開始されていた(ロサンジェルス、コロンバス、バルチモア、シアトル)。1966年には、トレーニングされた救急隊員(EMT)が正式に認可された。その当時は、なお除細動、薬剤投与、気管挿管はできなかった。搬送とCPRのみでは心停止は救命できないことが明らかとなった。

(1)ベルファストの試み

1965年に、Frank Pantridge は、ベルファストの王立ビクトリア病院の救急部で多くの到着時心停止例を多く経験したこと、また急性心筋梗塞の60%が症状発現の1時間以内に死亡していることを認識した。彼の解決策は、世界初のモービル冠疾患集中治療室の導入であった。彼は、それに運転手、医師と看護師を乗せた。Pantridgeは、MCCUの導入にあたり多数の障害に直面した。彼の同僚の循環器さえ懐疑的だった。新しいプログラムは、1966年1月1日にサービスを開始した。

ジョン・ゲッデス (John Geddes) はベルファストの王立ビクトリア病院の循環器レジデントでPantridgeのシステムに取り組んだ。チームの下級メンバーとして、4人の他のレジデントとともにモービルCCUに乗り活動をした。これで心臓救急治療のブレイクスルーがベルファストで起こったことをゲッテスは認識した。1967年にこのプログラムの有用性をLancetに報告をした14。312例中半分が急性心筋梗塞症で、その中に10例の心室細動が含まれ、蘇生に成功した。これはちょうどアムステルダムで溺水者に対する対策がとられてから200年目であった。

(2)米国での試み

ベルファストに次いで、米国での初のプログラムは、ニューヨーク市のグリニッジビレッジのセントヴィンセントの病院から、ウィリアム・グレイス(William Grace) によって1968年に始まった。Graceは、ベルファストを訪れ、Pantridgeからプログラムを学びニューヨークで実践した。モービルCCU に高度な蘇生術を提供できる医師が同乗した。胸痛患者の通報は911の警察交換台から病院へ転送され、モービルCCUが出動した。グレイスは初期の161例の患者経験を報告した。しかし、このシステムは一般化しなかった。そこで、医師が同乗するモービルCCUから救命士による救急システムへと変化していった。Safarは1966年11歳の娘を喘息発作で失ったことの悔恨から、救急システムを構築し全米でも初の救急医療サービス(EMS)を開始した。また、救急隊のトレーニングシステムと集中治療が可能な救急車の設計と設備の標準化を行った。恵まれない人たちのことを常に考え、大都市の失業中の黒人を選び、トレーニングして救急救命士(パラメディクとして育て上げた。そのプロジェクトは、Freedom House Enterprise Ambulance Service (自由の家救急サービス会社) と名付けられた。このサービスは現在のピッツバーグ市の救急システムに受け継がれている。

1969年には、アメリカ運輸省がEMSの向上とベーシック・プレ・ホスピタルケア・プロバイダー
『 EMT (Emergengy Medical Technician) 』 のトレーニング・プログラムを確立した。アメリカ最初のパラメディック・プログラムが、Eugene Nagel 医師の下、フロリダ州マイアミでスタートした。ユージン・ネーゲル (Eugene Nagel) は、マイアミで医師を用いたプログラムから救命士を用いるシステムへ変換した。まず実施したのは救命士と病院間を無線で接続することで救命士の処置の拡大を行った。ネーゲルは、救急隊がテレメディシンにより心電図伝送ができた場合には、救急隊が病院到着前に薬物治療が可能となると主張し、実践した。

1970年には、 全米レベルの教育、国家試験、そしてEMT免許制度が設立された (The National Registry of Emergency Medical Technicians) 。1973年には、EMTより高度な救急医療行為ができるパラメディックへの教育・設備のガイドラインが作られた。

(3)シアトルでの試み

レオナルド・コブ(Leonard Cobb) がパントリッジの試みを参考にした。彼は、すでにシアトル消防本部が院外での応急処置を実施しているのを知っていた。そこで、消防長のゴードン・ビッカリー(Gordon Vickery) に心停止を治療するための新しい訓練計画を提案した。消防署本部には、応急手当の救助隊を運営する米国で初のコンピュータシステムがあった。

図:Medic-oneの救急車 Paramedic (救急救命士)が高度治療のため搭乗する。

図:Medic-oneの救急車
Paramedic (救急救命士) が高度治療のため搭乗する。

コブは、このシステムがPantridgeの示したシステムの有効性を検証するのに役立つと考え、消防隊の知識と資源を蓄積することをビッカリーに提案した。コブと彼の同僚は、1969年Harborview病院において、シアトル市消防局の消防職員15名を対象とした「パラメディック」養成のための200時間の座学研修と,700時間の病院実習プログラムを開始した。1970年の6月,シアトル市消防局パラメディック・チーム「MEDIC-one」が設立され、その運用が開始された。

Medic-one

設立当初は、医師が救急車に同乗し救急出動する「ドクターカー方式」を採用し、対象は循環器疾患のみであった。その後,「医師による救急隊への遠隔指示体制(メディカル・コントロール)」が,ワシントン州法により定められ,「MEDIC-one」はめざましい効果を挙げはじめました。1972年には,「医師の指示を必要としない」ように州法が改正され症例ごとの「プロトコール (事前決定事項) 」が作成され、司令台の指示によりパラメディックはその「プロトコール」に従い、各種の救命処置が実施できるようになった。

図:シアトル消防本部の司令台、プロトコールは電子化され、また市内の地図に消防車や救急車の搬送状況がリアルタイムに把握され、空車状況が即座にわかるシステムである。

図:シアトル消防本部の司令台
プロトコールは電子化され、また市内の地図に消防車や救急車の搬送状況がリアルタイムに把握され、空車状況が即座にわかるシステムである。

更にシアトル市消防局では、全消防職員に対し、EMT(救急隊員)として必要なCPRをはじめとする救急処置訓練を実施するとともに,救急事故発生現場において、直ちにCPR等の「初期救命処置」が開始できるよう,消防隊を「MEDIC-one」と同時に出動させる「ファースト・レスポンダー・システム」を構築した。このシステムの導入により,救急事故現場への到着時間(レスポンス・タイム)は大幅に短縮され、3分で消防隊が現場に到着し、初期応急処置を行い、その後に数分し救命士(パラメディク)が到着し除細動を含めた高度治療を提供した。シアトルではこのシステムにより除細動まで脳蘇生が可能となり、その後安定化してから、救急隊は患者を病院へ搬送することになった。この救急システムは、市民を救急活動に参加させる世界の初のプログラムであった。 市内に7隊のみの「MEDIC―ONE」は、緊急性の高い疾患や外傷を負った市民のための救急車であり、緊急性の低い患者は対象とされていないことが、市民に認識されている。そのため、タクシー代わりに使用されたり、軽症例に使用されることはなく、また重症例を扱う病院がネットワーク化され、Medic-oneがコントロールしているため、収容が困難であることがないといわれる。

AMR-1
AMR-2

図:シアトルでの民間救急車(AMR)
シアトル・ハバ−ビューメディカルセンターERへ搬送してきたAMR。Medic-oneと同じように搬送報告して、指導も受けていた。

「MEDIC―ONE」には、「病院間転院搬送」業務は存在しないといえる。緊急度が低いと判断される場合は,消防隊に任せ、速やかに次の出動に備え残った消防隊は,緊急性が低い旨を患者に説明し、民間救急機関による搬送を希望した場合は、民間救急機関に患者を引き継いだ後、現場を引きあげる。民間救急機関は全米にあり、シアトルでは「American Medical Responce(アメリカン・メディカル・レスポンス)」(通称AMR)が民間救急業務を実施している。有料で400ドル (約40,000円) で保険加入者は保険適用となる。病院間搬送も「AMR」が行っている。乗務している救急隊員は、訓練を受けた隊員で装備も公的機関の救急隊と全く遜色がない。

市民教育:コブは、収集したデータから、CPRがより早期に開始できるほど、救命のチャンスがあがることを認識していた。彼は、CPRの早期に開始する最善の方法は、第1発見者の指導であると結論した。そこで、1972年コブは、ビッカリーの協力によりMedic 2と呼ばれている、市民教育を開始した。市民に対するBLSの普及活動は、6,000人の「市民ボランティア指導員」をまず育成することを目標に、全ての消防職員を総動員して開始された。

市民指導を展開し、毎月1,500人の育成を目標に活動が続けられ、最初の2年間で10万人以上を訓練するのに貢献した。Medic2プログラムの20周年を迎えるまでにシアトルと周囲の郊外の50万人以上の市民に対してCPRのトレーニグがなされた。現在では70万人を超えるまでになった。また、市内の公立中学校の中学1年生(13歳学童)に対しての「BLS教育2日間の2時間」を学校の授業プログラムの必須科目と1979年から市内に10ケ所ある公立中学校での「BLS授業」が開始された。毎年約5千人近くの生徒が受講し、現在では延べ約10万人以上の生徒が受講し、そのほとんどが中学校を卒業後、再び「BLS講習」を受講しており、市民バイスタンダーの普及育成の大きな力となっている。

公立小学校においても,児童教育プログラムの一環として消防職員を派遣した「防火教育」と「BLS教育」の授業が全ての小学校で恒常的に実施され、未就学児童や幼稚園児に対しての教育も行われており、こうした幼児期からの意識付けが、その後の普及活動の基礎となり、市民一丸となって心停止例の救命、さらには予防対策を実施している。我が国の対策はシアトルに30年の遅れをとっていると考えられる。

「MEDIC―2」を支えている財源には、市内のロータリークラブや企業がスポンサーとして後援し、さらには多くの市民による寄付が行われている。総額で年間約3万ドル (300万円) の寄付が寄せられBLSの普及活動についての支出はこれらの寄付金をプールした基金により実施されている。学校関係、市民団体、保健関連部局とも連携を取り、消防局の一機関ではなく、シアトル市の行政機関として「MEDIC−2」は運営されている。社会復帰した救急事例があった時は、情報が「MEDIC―2」に伝えられバイスタンダーに連絡を取り、報道機関に情報発送の許可を求め、直ちに「NEWS―LETTER」と呼ばれる報道機関への「情報提供用紙」を使用して「Eメール」や「FAX」により、シアトルの地元紙はもとより、全米をネットする新聞、テレビ、ラジオ局へ送信する。

シアトルの救命率の高さが報道され、「心臓に持病がある人はシアトルに移住しよう。そうすれば、もしもの時でも生命は助かり、長生きできる。」という内容の特集も組まれている。メディアの協力と有効な活用がバイスタンダーを育成し、増やしていくためには必要不可欠とされている。

図:フランス軍が用いた搬送車(1792年)

図:シアトル (King County) の広報カード
心臓発作をおこすならシアトル・キング州で、とある。

一部の人々は、CPRで大規模な市民訓練について懐疑的だった。実際、多くの人々は、素人が救命処置をして危害を与える可能性が大きいと感じていた。しかし、これらの反対の意見も救命例が増えるにつれ、沈静化した。ベトナム戦争の間に、米軍は、CPRを導入した。それから、1973年に、米赤十字社と米国心臓協会(AHA)は、アメリカ国民にこの方法を教えるための大規模なキャンペーンを開始した。1981年CPRの電話指導を提供する計画は、キング郡 (ワシントン) で始まった15。救急隊が到着前に司令台から電話により救助者へCPR指導した。これにより一般市民によるCPR実施率は50%まで増加している。この方法は今や米国で標準的な方法となっている。 また、Safarは、世界中でCPRを一般に普及させるため、ノルウェーの玩具のメーカー社長、アズムンド・レールダルと共同でレサシアン (CPR訓練マネキン) を開発した16。レールダル社子息のトーレ・レールダルに引き継がれ、現在医療機器メーカーとして蘇生トレーニング機器の提供に世界的に貢献としている。

図:アズムンド・レールダルとレサシアン

図:アズムンド・レールダルとレサシアン

図:蘇生法の巨人たち

図:蘇生法の巨人たち (クリックで拡大)
前列の左からサーファー、コブ、2列目の右から2番目にエヴィー、後列右にレールダルの子息

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